Journal — Vol.3
振る舞いと認識構造
行動を決定するもの
濵勝巳(HAMA Katsumi) — 2026年4月13日
はじめに
本稿は理論の解説ではない。25年の現場で、筆者が繰り返し目撃してきた、ある種の振る舞いの記録である。
読んでいただければ、おそらく思い当たる人がいるはずだ。「いる、こういう人」と。一人ではなく、何人も。
不思議なのは、業種も年齢も性別も違うのに、振る舞いのパターンが驚くほど似ていることだ。まるで同じ台本を読んでいるかのように、同じ場面で同じことをする。
筆者はこれを個人の性格や能力の問題として片づけることをやめた。同じパターンが何十人にもわたって繰り返されるとき、それは個人の問題ではなく、構造の問題である。本稿に書かれていることの多くは、経営者や管理職が愚痴や悩みとして語る話と重なるはずだ。なんであいつは。どうすれば変わるのか。どう言えば伝わるのか。その問いに対する筆者の答えは明確である。無理な話なのである。
本稿では、まず前半でこの人の軌跡を時系列で記述し、後半で振る舞いの特徴を観察として並べる。最後に、そこから見える構造について述べる。
一つ断っておく。本稿が記述するのは、社会の中にいる人の振る舞いである。組織に属し、上司や部下がおり、会議に出て、評価を受ける。そういう場にいる人の話だ。天才的なアーティストや、社会から離れた場所で独自の成果を上げている人の話ではない。同じ認識の構造であっても、社会の中に置かれるか、社会から隔離されているかで、現れ方はまったく異なる。本稿の射程は前者に限る。
I. 軌跡
勢いのある若手
最初に出会うとき、この人は魅力的である。
20代、遅くとも30代前半。勢いがある。発言力がある。言われたことには素直に取り組む。目の前の仕事を、考え込む前に手を動かして片づける。会議で黙っていない。周囲が躊躇しているときに、最初に声を上げる。
可愛げがある、と上の世代は言う。
目先のことに対する反応が速い。指示されたことはすぐにやる。しかも素直に見える。社会的に間違っていることであっても、目の前の人に言われればそのまま従う。その従い方が、理解して従っているように見える。
口がうまい人も多い。場の空気を読んで、周りに合わせる。合わせ方が自然に見える。だから、主体的に動いている人だと受け取られる。
この段階では、誰もこの人に問題があるとは思わない。むしろ、将来を嘱望される。
抜擢
勢いと発言力が評価され、若くしてポジションを与えられる。
チームリーダー、プロジェクトマネージャー、あるいはそれに類する立場。年齢の割に早い昇進。「期待している」という言葉とともに、権限と部下が与えられる。
本人もそれを望んでいる。立場を欲しがる。権力を欲しがる。与えられたとき、嬉しそうにする。
周囲はそれを意欲の表れだと受け取る。
変貌
ポジションを得た後、振る舞いが変わる。
部下を道具のように扱い始める。指示は一方的になり、部下の状況や意見は考慮されない。成果が出れば自分の手柄として報告し、失敗すれば部下の責任として処理する。
問題が発生したとき、隠す。隠しきれなくなると、嘘をつく。嘘で時間を稼ぎ、問題を先送りにする。決まっていない話を、さも決まっているかのようにして、その場を取り繕う。希望と現実の区別がつかなくなる。自分がこうあってほしいと思っていることが、いつの間にか事実として語られる。
責任はとらない。
この変貌は、周囲を困惑させる。あの素直で勢いのあった若手が、なぜこうなったのか。ポジションが人を変えたのか。権力が腐敗させたのか。
しかし、変わったのではない。変わっていないのだ。若手の頃に見えていた「素直さ」は、目の前の人に反応していただけだった。「勢い」は、考える前に動いていただけだった。「発言力」は、抑制がなかっただけだった。
構造は最初から同じだった。ポジションという環境が変わったことで、同じ構造が別の形で現れただけである。
「そのうち伸びるだろう」
周囲の反応にも、繰り返されるパターンがある。
年の離れた上司は、「まだ若いから」と時間を与える。経験を積めば変わるだろう。知識が増えれば視野が広がるだろう。失敗から学ぶだろう。
この期待は裏切られる。
1年経っても、3年経っても、まったく変わらない。経験が増えても、知識が増えても、振る舞いのパターンは同じままだ。同じ場面で同じことをする。同じ嘘をつき、同じ先送りをし、同じ言い訳をする。
このとき、周囲はようやく気づく。「何も考えていない」のだと。
若い頃の素直さは、経験や知識がないから従っていたのではなかった。目の前に現れたものに反応していただけだった。経験が積まれても、反応のパターンが変わることはない。
抜け殻
基本的に、何も考えていない。
若い頃はそれが見えない。勢いと反応の速さが、思考の代わりを果たしている。動いているから考えているように見える。発言しているから意見があるように見える。しかし、そこに思考はない。反応があるだけだ。
若さがなくなってくると、それが見え始める。勢いが衰え、反応の速さが鈍り、可愛げが消えたとき、残るものがない。抜け殻のような空洞が見える。マネキンのようにも見える。外形はあるが、中に何もない。
「なぜそれをやるのか」と聞いても、答えられない。答えないのではない。答えがない。行動の理由は自分の中にある。やりたかったから、嫌だったから、気分がそうだったから。それが本当の理由だが、それを他人に言えるわけがない。社会的に通用する理由ではないことは、本人もどこかで分かっている。だから聞かれると黙るか、取り繕うか、怒る。
「今までやってきた仕事は何ですか」と聞いても、振り返ることができない。経歴を語れないのではなく、自分の仕事を構造として把握していない。何をやっていたかは覚えている。しかし、それが何だったのか──何のためで、何を成し、何が残ったのか──を語る言葉がない。反応の連続には、振り返るべき筋がない。
これは衰えではない。若い頃から中身は同じだった。若さという外装が剥がれたことで、最初からそこにあった空洞が露出しただけである。
居場所の喪失
「若いから」という猶予には期限がある。
期限が切れたとき、この人は居場所を失う。横暴な振る舞いを許容する理由がなくなり、成果で評価される段階に入ったとき、成果が出ない。成果が出ないことを隠す手段も尽きる。
本人は変わっていない。20代の頃と同じことをしている。同じ反応をし、同じ振る舞いをしている。しかし、周囲の評価は年齢とともに変わる。25歳なら「勢いがある」と言われた振る舞いが、40歳では「何も考えていない」と言われる。同じ振る舞いに対して、周囲が勝手に異なる評価を与えている。
本人にはそれが理解できない。「評価基準が変わった」と文句を言う。自分は何も変わっていないのに、なぜ評価が下がるのか。本人からすれば、これは正当な訴えだ。
しかし、評価基準は変わっていない。年齢とともに期待が上がっただけだ。25歳に求められる認識の前提と、40歳に求められる認識の前提は異なる。しかし、この人の認識の前提は25歳のときから動いていない。
ピーターの法則──人は無能になるレベルまで昇進する──は、能力の限界として語られることが多い。しかし、筆者が観察してきたのは能力の限界ではない。認識の前提が、ポジションが求める認識の前提と構造的に合っていないという事実だ。
この人がポジションを失ったとき、周囲は「あの人はダメになった」と言う。しかし、ダメになったのではない。何も変わっていないのだ。周囲の期待と環境が変わっただけで、本人の認識の構造は最初から同じである。
II. 特徴
主体はすべて自分
25年の観察の中で、筆者が最も驚いたのはこの点である。
これらの振る舞いに通底しているのは、主体がすべて自分だということだ。
部下を道具として扱うのは、他者が独立した存在として見えていないからだ。手柄を自分のものにするのは、成果が自分から生じたものとしか認識されていないからだ。嘘で取り繕うのは、自分の見ている世界と他者の見ている世界が異なるという認識がないからだ。立場や権力を欲しがるのは、自分が世界の中心にいることを確認したいからだ。
これは傲慢さではない。利己主義でもない。もっと手前の話だ。
他者が、自分とは異なる認識を持つ独立した存在として、そもそも見えていない。だから配慮しないのではなく、配慮すべき対象が認識の中に存在していない。
他者の認識が想像できない
「あの人はこう考えるかもしれないよね」という話が、この人には響かない。他者が自分と違う考えを持っているということが、想像できない。想像しないのではなく、想像するための前提がない。
だから例え話や比喩も通じない。例え話とは、自分の経験や認識とは異なる枠組みに一度乗り移って、そこから見直す行為である。自分の認識しか存在しない世界では、乗り移る先がない。自分の経験と一致する話だけが「わかる」話になり、一致しない話はすべて「わからない」で終わる。
仮説も立てられない。仮説とは、現実とは異なる可能性を仮に置いて、そこから考える行為である。現実が目の前に現れたものだけで完結している人にとって、「もしこうだったら」という問いは意味を持たない。
借りを作れない
借りを作ることを嫌う。誰かの力を借りたという事実を残したくない。自分だけでやった、ということにしたがる。
だから他人の力を借りない。相談もしない。困っていても、助けを求めない。これは強がりではない。そもそもすべてが自分事であり、自分の世界の中で起きていることなので、他人を巻き込むという発想がない。巻き込めない。自分の問題を他人に言えるわけがない。
協力とは、自分の外側にある課題に共に向き合うことである。課題が外にあるから、他者と並んで取り組むことができる。しかし、この人の課題はすべて自分の中にある。自分の中にある課題には、他者は手を出せない。だから協力が成立しない。
親分と群れ
この人には、従う相手がいる。
制度上の上司だから従うのではない。「この人には勝てない」と身体的に感じた相手に従う。理由や論理ではなく、力関係の認識で親分が決まる。親分と決めた相手には忠実に従い、親分の言うことは絶対になる。
逆に言えば、親分以外の指示には本質的な関心がない。制度上の命令系統よりも、自分が認めた親分との関係が優先される。
この人の社会は、家族的な群れである。親分がいて、仲間がいて、自分がいる。組織図ではなく、力関係と感情の記憶で構成された群れの中に帰属している。誰が上で、誰が下で、誰に恩があり、誰に貸しがあるか。それがこの人の社会の全体像だ。
群れの外にいる人間は、基本的に無関係である。群れの中の序列だけが、この人にとっての社会構造である。
ただし、群れに帰属していることと、群れのために動くことは別である。群れは自分の心地よさのためにある。一緒にいて楽で、居場所があり、自分が認められている感覚がある。それが群れにいる理由だ。群れの存続や仲間の状況に対する関心はない。親分に従うのも群れのためではなく、自分の居場所を確保するためだ。群れのことも、突き詰めれば他人事である。
変化を嫌う
この人は変化を嫌う。
状況が変わって方針が変更されたとき、「前と言っていたことと違う」と責める。過去に決まっていたことと今が違う、という指摘に強い執着を見せる。
状況が変わったから判断が変わった、ということが理解できない。変化は裏切りとして処理される。整合性とは、過去と現在が一致していることだと信じている。
一方で、社会のルールには従う。法律を守り、就業規則に従い、手続きを踏む。一見すると社会性があるように見える。
しかし、従っている理由がまったく違う。
ルールに従うのは、ルールの意味を理解しているからではない。ルールが社会をどう成り立たせているかに関心があるわけでもない。罰則が嫌だから従っている。違反すれば罰を受ける。その罰が自分の身体に降りかかることを避けたいから、従う。
つまり、ルールの背後にある社会的な合意や制度の意図は見えていない。見えているのは、従わなかったときに自分に何が起きるか、だけだ。
変えようとするときも、理由は自分
この人が何かを変えようとすることがある。業務の進め方、チームの体制、ルールの運用。改善を訴え、声を上げ、行動する。外から見ると、問題意識を持って組織を良くしようとしているように映る。
しかし、変えようとしている理由を聞くと、構造の欠陥を見たからではない。自分が困っているからだ。自分に不都合が降りかかっているから、それを取り除きたい。
構造を見て変えようとする人は、自分が困っていなくても動く。全体の中に欠陥を見つけ、それを放置すれば何が起きるかを見通し、今のうちに手を打つ。動機は構造にある。
この人の動機は、自分にある。自分が痛くなければ動かない。自分の痛みがなくなれば、変えることへの関心も消える。
外からは同じ「改善の提案」に見える。しかし、動機がまったく違う。この違いは、提案の中身を見ればわかる。構造を見ている人の提案は、自分がいなくても機能する仕組みを作ろうとする。この人の提案は、自分の不都合を解消することで完結する。
公共の場で
職場だけの話ではない。
歩きスマホ。電車の入り口に立ったまま動かない。公共の場で大声で騒ぐ。列に割り込む。これらは「マナーが悪い」として語られることが多い。しかし、マナーを知らないのではない。マナーを破っているという認識がない。
他者がそこにいて、自分の振る舞いが他者に影響を与えているという認識が、そもそも成立していない。電車の入り口に立っている人は、後ろに降りたい人がいることを無視しているのではない。後ろに人がいることが、認識の中に現れていない。
主体が自分だけの世界では、公共という概念が成立しない。公共とは、自分以外の他者が同じ空間を共有しているという前提の上に成り立つ。その前提がなければ、すべての場所は自分の場所である。
特殊詐欺の受け子になるのも、おそらくこの構造だろう。目の前の人に言われれば従う。社会的に間違っていても従う。それが犯罪であることの意味──被害者がいること、社会の信頼を壊すこと──は認識の中に現れていない。目の前にあるのは、指示と報酬だけだ。
この人が「自由」という言葉を使うとき、それは「何をしてもいい」を意味している。制約がないこと、誰にも止められないことが自由だと信じている。しかし、自由とは本来、制約の中で自らの意志で選ぶことだ。選択の責任を引き受けることだ。他者の自由と自分の自由が共存する条件を理解することだ。その構造が見えていなければ、自由は単なる放縦になる。
III. 構造として読む
本稿で記述した振る舞いは、すべて筆者が実際に、繰り返し目撃してきたものである。一人の話ではない。何十人もの人に、同じパターンが現れた。
このパターンを個人の性格として処理することはできない。何十人もの人間が同じ性格であるはずがない。能力の問題として処理することもできない。能力が足りないなら、経験とともに変わるはずだが、変わらない。
これは認識の前提の問題である。世界がどう現れているか。他者がどう見えているか。時間がどう流れているか。これらの前提が、この人たちの間で構造的に共通している。そして、その前提は別の前提を持つ人とは根本から異なっている。本稿の振る舞いの記録は、理論から演繹したものではない。現場で積み上げた観察を、後から構造として読み直したものである。
なぜ見抜けないのか
この構造を見誤る理由もまた、認識の前提にある。
この人とは異なる認識の前提を持つ人は、相手も自分と同じように考えていると無意識に仮定する。目の前の人が素直に従っているのを見て、「理解して従っている」と読む。改善を提案しているのを見て、「組織のことを考えている」と読む。自分がそうするときの理由を、相手にも当てはめてしまう。
だから裏切られたと感じる。「あの人は変わった」「期待を裏切られた」と。しかし、相手は最初から変わっていない。変わったのではなく、最初から見えていたものが違っていた。周囲が自分の認識の前提を相手に投影していただけである。
この投影こそが、問題の発見を遅らせている最大の原因だ。
この構造は作られている
筆者の仮説では、この認識の構造は若年層のうちに決定づけられる。生まれつきではない。作られている。
他者と向き合い、摩擦を経験し、自分の外側にある課題を共に扱う。そういう機会の中でしか、認識の前提は広がらない。その機会が、教育から、職場から、地域から、次々と取り除かれている。
自由という言葉が、この構造を養殖している。好きなことをしなさい、自分らしく生きなさい、誰にも縛られなくていい。それは一見、人を解放する言葉に聞こえる。しかし、身体的な反応の外に出る回路を持たない人にとって、「自由にしていい」は「反応のままでいい」と同義である。接続の機会を奪い、反応だけで生きていける環境を用意し、それを自由と呼んでいる。
残されるのは、反応のまま生きていく構造だけだ。そして、この構造を持つ人は現代において増えている。
猶予の終わり
若いうちはなんとかなる。勢いと反応の速さで、目の前の仕事は片づく。しかし、それは時間の問題である。年齢とともに猶予は消える。
そして今、その若い時期すら不要になりつつある。生成AIの登場によって、目の前の仕事を素早く片づけるという能力は、機械が代替できるようになった。反応の速さと素直さだけが取り柄だった人の居場所は、年齢を待たずに消えようとしている。
年齢を重ねても認識の前提が変わらなかった人は、やがて政治が悪い、社会が悪いと言い始める。自分の居場所がなくなったのは、社会のせいだと。自分の振る舞いが何を招いたのかを振り返る構造がないのだから、原因は外にしか見えない。
構造として増えているという事実を認識しなければ、対処の設計はできない。
第1号で述べたように、認識の前提が異なる人々が同じ場にいるとき、同じ制約が同じように機能することはない。第2号で述べたように、アジャイルプロセスが機能しなかった理由もここにある。
おわりに
読者の中に、思い当たる人がいたなら、それは偶然ではない。同じ構造が、あなたの現場にも現れている。
本稿はその人を責めるために書いたのではない。責めても何も変わらない。変わらないということが、本稿の出発点だった。
必要なのは、この構造が存在するという事実を認識することだ。認識すれば、期待の仕方が変わる。配置の仕方が変わる。「なぜあいつは」という問いが消え、「この構造にどう対処するか」という問いが立つ。
それが、構造として読むということである。