Journal — Vol.4

セルという入口

役割前提の組織が排除するもの

濵勝巳(HAMA Katsumi) — 2026年4月15日

はじめに

本稿は、株式会社Zabutonを視察した経験を契機として書かれたものである。同社は、筆者のコンサルテーションのもと、筆者が発案したセルの概念を数年前から導入しており、今回の視察は、その概念が現場でどのように運用されているかを観察するために行ったものである。

以下に述べる内容は、視察から得た示唆をもとに、筆者が組織構造と認識構造の観点から展開した仮説と考察であり、同社の見解を示すものではない。また本稿は、障害や心理、就労支援の是非について論じるものではない。筆者はそれらの領域の専門家ではなく、あくまで組織構造の観点から書く。

なお、本稿で論じるセルは、筆者が発案した概念であり、同じ語が他の文脈で用いられる場合のものとは区別される。

問いの出発点

本稿が扱う問いは、役割前提・所属前提の組織構造は、どのような認識構造を排除するのか、というものである。

多くの組織は、まず役割を定め、所属を前提にし、そこへの適合を人に求める。この構造に適合できない人が現れたとき、それはしばしば個人の能力不足として処理される。しかし、本稿はその判断をひとまず保留し、同じ事態を別の側面から見たい。すなわち、適合できないのではなく、そもそも役割と所属を前提にした構造そのものが、一定の認識構造を持つ人をあらかじめ入れないように作られているのではないか、という側面である。

ここで認識構造とは、人が現実をどのように捉え、何を重要と見なし、どのように理解し行動するかを支えている枠組みを指す。組織はしばしば、受け入れる側の認識構造を標準としてしまう。その標準に適合する人は能力があると見なされ、適合しない人は差異としてではなく不足として理解されやすい。こうして、認識構造の違いは組織の中で能力の問題へと読み替えられる。

本稿が扱うのは、この読み替えを起こしている組織構造のほうである。個々の人の能力や意欲を評価することは筆者の射程にない。論じるのは、構造として何が起きているかである。

その上で本稿は、この構造的な問題に対する別の概念として、セルを提案する。セルは、役割前提・所属前提のチーム的構造ではなく、目的によって成立する活動として捉えられる。

チームという構造が前提にしているもの

多くの組織は、まず役割を定める。何を担う人か、どこに所属するか、どのように振る舞うかが先に与えられ、その枠の中に人を入れようとする。ここで求められているのは、単なる作業の遂行だけではない。役割への適合、所属への適合、さらにはその場にふさわしい関わり方までが暗黙に期待される。チームという言葉には、こうした構造的な前提が含まれやすい。

さらにそこには、チームワークという言葉も重なる。チームが役割と所属を前提にした構造を指すなら、チームワークはその内部で期待される望ましい関わり方を意味しやすい。うまく協調すること、息を合わせること、気持ちよく関わることが、当然のように求められる。しかし、そのような期待はすべての人にとって自明ではない。役割前提の構造が一定の人々を排除するだけでなく、チームワークという規範がさらにその排除を強めることがある。

ここで問題なのは、チームそのものの善悪ではない。所属や仲間意識は、人に安心を与え、不安を和らげる。組織や仲間の感覚を持つこと自体を否定する必要はない。問題は、それらが組織の入口に置かれ、役割や所属への適合が参加条件になってしまうことである。人を支えるはずのものが、人をふるい落とす条件に変わるとき、構造は排除を生む。

セルとは何か

ここで提案したいセルは、まず概念である。運用の方法ではない。組織論上の望ましさでもない。セルとは何かという問いと、セルをどう運用するかという問いは分けて考えなければならない。定義の段階で、運用上の要請を混ぜてしまうと、概念は曖昧になる。

セルとは、目的によって成立する活動である。この点が出発点である。

目的という語について、もう少し補っておきたい。形式的に言えば、目的とは、後から振り返ったときに「なぜこの期間や関係をひとつの単位として扱ったのか」を説明するための焦点である。もっと平たく言えば、お天道様に恥ずかしくなく、継続して共有し維持できるもの、と言ってもよい。目的は、意図を持つ誰かによって立てられる。そしてそれは、セル自身を良くすることや存続させることではなく、セルの外側にある状況や関係に向けて置かれる。

セルを構成するものとして、あらかじめ役割を置く必要はない。所属もいらない。仲間意識もいらない。一体感もいらない。コミュニケーションすら成立条件ではない。これらは運用の中で現れうるが、セルの定義には入れない。セルは、それら人間的な関係性とは独立に成立する活動として捉えられるべきである。

セルは目的によって立ち上がる。目的があることで、何が関係し、何が関係しないかが定まる。どこまでがその活動の範囲であり、何が外部であるかも定まる。つまり、セルは目的によってコンテキストが決まる。何が意味を持ち、何が関係要素となり、何が不要かは、すべて目的によって収束する。逆にいえば、目的がなければ発散する。何を結びつけ、何を切り分けるのかを決める原理がないからである。

したがって、目的が違えばセルは異なる。セルの同一性は、構成員によってではなく、目的によって決まる。ひとつのセルはひとつの目的しか持たない。もし複数の目的を同時に持ち込めば、そこには複数の収束原理が並び立つことになり、すでに複数のセルが存在していると考えるべきである。

今ある能力だけで目的に向かう

セルは理想の構成から始まるのではない。今ある能力だけで目的に向かう活動である。この点は重要である。セルを考えるとき、しばしば不足している能力や、備わっているべき能力を先に想定してしまう。しかし、それをやった瞬間に、セルは現在から離れ、期待値によって組み立てられたものになる。

できないことは、期待してもできない。願ってもできない。役割として与えてもできない。あるべき論を重ねてもできない。それにもかかわらず、多くの組織は、まだ存在しない能力や、発揮できない働きを前提に人を構成しようとする。そこで起きるのは改善ではなく、欠如の確認と苦しさである。セルはそうではない。セルは、いま存在している能力だけで目的に向かう。足りない能力を前提にせず、できることから出発する。この意味で、セルは期待値ではなく現在値で成立する。

ここでいう能力は、あらかじめ固定的に定義された役割とは異なる。役割を先に定めることは、すでに「何が必要か」を先に決めることであり、セルの成立条件を外側から固定することになる。セルは、そのような役割前提の構造ではない。目的が先にあり、その目的に対して今ある能力がどのように関係しうるかが、後から見えてくるのである。

コミュニケーションは前提ではない

セルを考えるとき、コミュニケーションを必須条件に置いてしまうと、概念はすぐに狭くなる。もちろんコミュニケーションは重要になりうる。だが、それは能力のひとつにすぎない。特権的なものではないし、常に必要なものでもない。コミュニケーションがなければならないとすると、人間同士の会話可能性がセルの成立条件になる。しかし、それでは生成AI、ソフトウェア、外部サービス、制度的機能などを含む現実の活動を十分に扱えない。

セルの構成要素は、役割ではなく、現に利用可能な能力として見た方がよい。そのとき、コミュニケーションもまた能力のひとつにすぎない。必要な場面では使われるが、それがなければセルが成立しないわけではない。セルの本質は対話ではなく、目的に向かって活動が成立していることにある。

ここで関与について補っておきたい。セルを構成するのは能力であり、人はその成立に必須ではない。人以外の要素が能力として関わる場合もある。人が関与する場合、その関与は自らの意思によるものでも、そうでないものでもよい。意思の有無はセルの成立条件ではない。

認識構造の違いと能力の差

ここまで「能力」という言葉を、誰に対しても同じ意味を持つものとして扱ってきた。しかし実際には、能力は認識構造と切り離せない。同じ技能や知識を持っていても、認識構造が違えば、それが活きる場面も活かし方も変わる。さらに言えば、何を能力として認識するか自体が、認識構造によって異なる。ある認識構造では能力として立ち上がるものが、別の認識構造の中ではそもそも必要とされない、あるいは気づかれない、ということが起こる。

この点で、役割前提の組織は構造的な限界を持つ。役割とは、能力を均質な部品のように扱うための抽象化である。「この役割にはこの能力が必要」という形で、能力を文脈から切り離して要件化する。しかし、実際の能力は認識構造とともに働く。同じ役割を与えても、認識構造が違えば、そこで発揮される働きは同じにならない。役割前提の構造は、この差を「個人差」や「能力のばらつき」として処理しやすいが、それは差の出どころを認識構造のレベルで見ていないからである。構造の問題が、個人の問題に還元されている。

セルはこの点で異なる。セルは、目的に対して今ある能力を見る。役割という抽象化を先に置かないため、能力を認識構造から切り離して均質化する必要がない。そこで立ち上がる能力が、どの認識構造と結びついてどう働くかを、はじめから見たまま扱える。

成長は別目的である

セルを現在値から出発する活動として捉えると、「それでは成長しないのではないか」という反論が生じる。しかし、ここで混同してはならないのは、現在の能力で目的に向かうことと、能力を拡張することとは、別の目的だということである。成長を持ち込んだ時点で、すでに別の目的が入っている。したがって、それは別のセルとして考えるべきである。

成果に向かう活動と、成長を目的にした活動は、同じセルではない。片方は今ある能力で何を実現するかを問う。もう片方は能力そのものをどう変化させるかを問う。収束原理が違う以上、そこには別のセルがある。成長は否定されない。だが、成長は別目的であり、別セルである。この区別を失うと、実行のセルに成長要求が混ざり、成長のセルに成果要求が混ざる。そしてどちらも曖昧になる。

チームは成功したセルの抽象化である

ここまでの整理から、チームを別の角度から見ることができる。チームとは、現実の中でうまくいったセルの関わり方やまとまり方が、後からパターン化されたものと考えられるのではないか。セルが先にあり、その中で成功した形が抽象化され、再利用される概念としてチームが生まれるのである。

この抽象化の過程で何が起きているかを見ておく必要がある。セルでは、どの能力がどう働いて目的に寄与したかは、事後的に把握される。能力の貢献は、活動が進んだあとに振り返って見えるものである。抽象化とは、この事後的な関係を取り出し、「型」として固定することである。事後的に把握されていた「この働きをしたのはこの能力だった」は、型化されると「この働きを担うのはこの役割の人である」という事前の枠に転化する。関与についても同じことが起きる。能力が目的に関係することで結果として生じていた関与が、抽象化されると「このチームに所属していること」という事前条件に変わる。事後性が失われ、事前性が前景化する。これが、セルの抽象化であるチームに、役割や所属が入り込む理由である。

もしそうであれば、チームにあるべき論や期待値が入りやすいことも理解できる。チームは現在の活動そのものではなく、成功した活動の一部が型になったものである。だから、現実の活動に先立ってチームを適用しようとすると、型への適合が先に来る。所属、役割、チームワーク、望ましい振る舞いが入口条件になるとき、そこに適合しない人々が排除されるのは偶然ではない。それは構造の当然の帰結である。

この意味で、セルが現在の活動であるのに対して、チームは成功したセルの抽象化であり、期待値を帯びた構造だといえる。チームが悪いのではない。だが、出発点としては適さない場合がある。とりわけ、役割前提・所属前提の構造に入れない人々を考えるとき、先に置くべきなのはチームではなくセルである。

結論

本稿の問いは、役割前提・所属前提の組織構造は、どのような認識構造を排除するのか、というものであった。組織が受け入れる側の認識構造を標準として固定するとき、その標準に合わない人は差異ではなく不足として読まれる。これは個人の問題として表れるが、構造としては、適合条件の置き方の問題である。

そこで必要になるのは、所属や役割への適合を入口にしない別の概念である。セルはそのために提案される。セルとは、目的によって成立する活動である。セルは目的によってコンテキストが決まり、目的が違えば別のセルである。ひとつのセルはひとつの目的しか持たない。セルは今ある能力だけで目的に向かう。できないことを期待してもできない以上、セルは期待値ではなく現在値から始まらなければならない。コミュニケーションも能力のひとつにすぎず、成立条件ではない。関与は意思や所属を前提とせず、構成要素も人に限定されない。能力は認識構造の違いによって異なりうる以上、役割前提の構造はその差を扱いにくい。

所属や仲間意識を否定する必要はない。組織を作ってはならないわけでもない。だが、それらはセルの定義ではない。セルの上に重なりうる別の層である。出発点は、あくまで目的である。そこから、今ある能力だけで成立する活動としてセルを捉えること。それが、役割前提・所属前提の構造に入れない認識構造に対して、排除ではない関わり方を開く一つの手がかりになる。