Journal — Vol.5
正しさの中にいる人々
近代社会が必要とした認識構造
濵勝巳(HAMA Katsumi) — 2026年4月20日
はじめに
第3号では、反応だけで動く認識構造について記述した。本稿では、もう一つの認識構造について書く。
近代社会の中で最も多数を占め、最も安定的に機能してきた認識構造である。おそらく読者の周囲にも、あるいは読者自身にも、思い当たるところがあるだろう。
彼らは真面目である。与えられたことをきちんとこなす。ルールを守り、手続きを踏み、秩序の中で自分の位置を保つ。社会の大多数がこの認識の中にいる。そして、近代社会はこの認識構造を必要としてきた。
本稿が記述するのは、性格や能力の話ではない。ある認識構造から現れる振る舞いである。真面目であること、ルールに従うこと、外れないようにすること。それらは個人の選択ではなく、認識構造がそうさせている。本稿では、この認識構造がどのようなものであるか、それがなぜ作られたのか、そしてその前提がいま何によって崩れつつあるのかを記述する。
近代社会が作った認識構造
最初に、この認識構造がどこから来たのかについて述べておきたい。
産業革命以降の社会は、言い方は悪いが、人間を機械の一部として考えるようになった。機械だけでは足りない部分を補う、もう一つの機械として人間が必要だった。工場が動くためには、与えられた型の中で正しく安定的に動ける大量の人間が必要だった。全員が社会の構造を見通す力を持つ必要はなかった。むしろそれを必要としないように教育し、評価し、生産性を高めてきた。
構造を見る力を広く要求すると、社会は破綻するのかもしれない。もし誰もが構造を見始めれば、多数の人を同じ基準で動かし続ける近代社会の仕組みは成立しにくくなる。
この認識構造は、自然に発達したものではない。近代社会が生み出し、必要としてきた、人工的なものである。そして、この認識構造を教育を通じて広く作り続けてきたおかげで、近代社会はここまで発展してきた。産業も行政も教育も、この認識構造を持つ大量の人々が安定的に機能することで成り立ってきたのである。この認識構造を持つ人が社会の多数を占めているのは、近代社会がそれを必要とし、そのように育ててきた結果である。近代の教育とは、もしかするとまさにこの認識構造を作ることだったのかもしれない。そして、社会の常識や制度の多くは、この認識構造に合わせて提供されてきた。
この認識構造の中心にあるのは、社会の制度やルールや秩序が、判断の基準として常に存在しているということである。自分の内側から判断が立ち上がるのではなく、制度の側に判断の基準がある。許されているか、役割に合っているか、問題にならないか。行動はそうした基準で選択される。これは意思がないということではない。意思や判断の基準が、個人の内側ではなく、制度の側に置かれているということである。
以下では、この認識構造からどのような振る舞いが現れるのかを記述する。
正しさの中で外れずにいること
彼らは真面目である。学生時代から真面目であり、与えられたことをきちんとこなす。
だがそれは、学ぶことが社会にとって正しく、義務であり、間違っていないことだからやっている。学ぶことそのものが正義であり、そこに自分自身の問いはあまりない。正しいとされているものを身につける。そのことによって外れずに済むからである。
学生にとっての「正しさ」は学校の制度だけではない。親の承認もまた、すでにある正しさの枠として機能している。成績が良いこと、言われたことを守ること、期待に応えること。それらはすべて、正しさの枠の中にいることを確認するための手段である。
彼らは構造や意図よりも、手続きやルールや権威に従う。だがそれは、意識的に権威主義であるというわけではない。制度やルールが判断の基準として世界に現れているのだから、そのように世界が見えているのである。ルールが世界の見方そのものなのである。すでに正しいものの中で間違いなく振る舞うこと。それが、彼らにとっての「考える」である。
そのため彼らは一般論や標準化を好む傾向がある。他の人はどうやっているのか、自分のやり方は外れていないか。それを知りたいし、教えてもらいたい。関心の中心は、何のためにやるのかという目的よりも、どうやるべきなのか、みんなはどうやっているのかにある。そして、できたのかできなかったのかが気になる。意味があったのか、価値があったのかという問いは、この認識構造の外にある。
外れることへの不安
彼らは異端を夢見ることがある。しかし本当の異端には関わりたくない。特別でありたい気持ちはあるが、秩序の外には出たくない。外れることは不安であり、危険であり、自分が間違った側に置かれることを意味するからだ。
だから彼らは承認を取りにいこうとしない。何かを成し遂げて認めさせようとするのではなく、すでにある承認の枠から外れていないことを確かめたいだけである。学校の成績も、資格も、肩書も、ルール順守も、SNSのいいねですら、その延長線上にある。重要なのは、積極的に勝つことではない。間違っていないこと、外れていないこと、普通であること。それが重要なのである。
彼らは謙虚であり、独り勝ちしようとはしない。正しい、間違っていない、無難である。それが心の拠り所になっている。
ここでいう「正しい」とは、普遍的な真理のことではない。社会的に承認されていること、周囲がそうしていること、そこから外れていないこと。しかもそれは客観的な社会全体というより、本人にそう見えている社会──つまり社会と主観の複合である。その範囲内で逸脱していないことが安定であり、善い生き方なのである。
学習の終わり、改善への抵抗
彼らにとって学習には終わりがある。
これは怠惰ではない。学ぶことが自己変容のためではなく、安定に到達するための手段だからである。自分の持っている知識で無難に生きられる場所を見つければ、それ以上の知識は要らない。むしろ新しい知識は、せっかく見つけた安定を揺るがし、不安定さを持ち込む可能性すらある。
改善も同じである。彼らにとって改善とは、よりよくすることではない。いま成り立っているものを壊すかもしれない行為である。維持したいわけでもない。ただ壊したくないだけであり、外れたら困るだけなのだ。
企業活動は安定と変化の繰り返しである。しかし、組織の多くの割合をこの認識構造を持つ人々が占めているとき、変化は容易ではなくなる。安定に向く認識構造が、変化の足枷になるのである。このことは、多くの読者が経験済みだろう。
変化は、この認識構造の中では歓迎されない。現状の正しさを疑うという働きそのものが、この認識構造の中に存在しない。疑わないことを選んでいるのではない。疑うという選択肢が、認識の中に現れないのである。
なぜか。この認識構造が人工的に大量に作られてきた社会では、疑う必要がそもそも生じにくい。むしろ疑わずに済むように、社会の側が設計されてきたと言ったほうが正確だろう。学校、資格、手続き、評価制度、組織。これらはすべて、すでにある正しさの中で外れずに生きられるように作られてきた。
優秀さの定義
優秀さもまた、この認識構造の中で定義されてきた。
社会的に価値のある知識を多く持ち、それを正しく運用できること。それが近代社会における優秀さだった。
この認識構造において優秀であるとは、自分自身の欲求や感覚よりも、制度に従うことが強くなるということでもある。反応だけで動く認識構造が主体をすべて自分に置くのに対して、この認識構造の優秀さは、自分を抑え、制度の要請に忠実に応え続けられることにある。
官僚や学会に属する研究者の中には、その知識保持能力が大きいため、より広い範囲で外れずにいられる人がいる。つまり安定できる領域が広い。膨大な法令や前例や手続きを正確に保持し、制度の中で正しく判断し続けることができる。それが、この認識構造における優秀さの頂点である。
膨大な知識を持つ人は、構造を理解しているかのように振る舞うことができる。制度の歴史や趣旨を語り、前例との整合性を精緻に説明できる。学会における科学の営みも同様で、査読や引用や学位という制度のルールに精通し、それを正確に運用することができる。しかし、それは構造を認識しているのではない。制度の内部を精密に記述しているのである。「この制度はなぜこうなっているか」を制度の沿革から説明することと、「この制度は何を前提としており、その前提は妥当か」を問うことは、まったく別の行為である。前者はこの認識構造の中で可能だが、後者はこの認識構造の外にある。
逆に、知識量が少ない人は、制度に従うための知識が足りないため、構造なき振る舞いとして現れる。
地盤の消失
この認識構造は、知識を持ち、それを正しく運用することに価値がある社会の中で機能してきた。
だがインターネットや生成AIによって、その前提は変わってきている。これは今に始まった話ではない。産業革命以降、より有能な機械が現れるたびに、人間が担う仕事の範囲は縮小してきた。機械ができないことを補うために人間が必要だったが、機械だけで済むようになってきている。
生成AIの登場は、この流れを決定的にした。知識の取得にコストがかからなくなり、調整の手間は蒸発し、平均的な生産は無価値化しつつある。彼らが長い時間をかけて身につけてきた知識は、すでに彼ら自身がいなくても活用できるようになり始めている。「多く知っていて、正しく運用できること」──近代社会が高く評価してきたまさにその能力の価値が、崩れている。
職が奪われること、シンギュラリティ、セキュリティ。これらはすでに広く議論されている。しかし、多数の人が知識を持ち、調整し、平均的な生産を担うことで成立していた近代社会そのものの条件が変質しつつあるという問題は、それらと同じくらい大きな課題ではないかと筆者は考えている。限界費用がゼロに向かう流れは、認識構造の問題ではなく経済の問題であり、止めることはできない。
知識で位置を守ること、平均的に働くこと、正しく調整することが価値だった時代が終わるなら、彼らが立っていた地盤そのものが消えていく。地盤が消えたとき、彼らはおそらく声を上げない。制度が間違っていると批判するためには、制度の外に立たなければならない。しかし、この認識構造には制度の外という足場がない。制度が自分たちを支えてくれていたのだから、その制度を否定することは、自分自身の足場を否定することになる。
だから彼らは、現状を受け入れ、みんなで我慢するのだろう。それが、この認識構造の中で取りうる、唯一の正しい対応だからである。
おわりに
この認識構造を持つ人々は、良い人である。真面目で、謙虚で、ルールを守り、独り勝ちしない。個人として責められるところがない。本稿に前号のような個人のエピソードがないのは、この認識構造が個人の物語を生まないからである。特徴がないことが特徴なのだ。
近代社会の多くの部分は、彼らが支えてきた。彼らなしには、産業も行政も教育も成立しなかった。しかし、彼らが大量にいることで変化は止まり、彼らが立っている地盤は静かに消えつつある。彼らにはそれが見えない。そして、それを指摘するための構造を、多くの人が持っていない。
メタウェアは問題を解決するための装置ではない。問題がどの認識構造から、どのような形で現れているかを認識するための道具である。この構造が存在するという事実を認識し、その構造が何を前提として成り立ち、その前提がいまどう変わりつつあるのかを読み、そこから制度の設計を考え直す。それがメタウェアの仕事である。
筆者はシステムと経営の視点からこれに取り組んでいる。しかし、同じ構造は行政にも教育にも他の産業にも現れている。それぞれの分野で、メタウェアを使って見直す人が必要だと考えている。
参考文献
- 古川雄嗣『大人の道徳──西洋近代思想を問い直す』東洋経済新報社(2018年)