Journal — Vol.6
ドーナッツ社会
生地の部分が消えるとき
濵勝巳(HAMA Katsumi) — 2026年7月31日
はじめに
第5号では、近代社会が必要としてきた認識構造と、その地盤が消えつつあることを書いた。本稿はその続きである。地盤が消えたあと、社会はどういう形になるのか。
本稿が提案するのは、一つの見方である。社会をドーナッツのような構造として捉えてみる、というものだ。
これは予測ではない。すでに始まっていることを、どう見るかという話である。以下では、この見方を示し、そこから何が見えてくるかを書く。
厚みの部分
筆者が長く見てきたのは、システムを作る現場である。そこで繰り返し目にしたのは、システムを使う人と、何を作るかを決める人のあいだに、大量の人がいるという構図であった。
要望を聞き取る、仕様を整理する、設計書を書く、実装する、テストする、稟議を回す、報告をまとめる、進捗を管理する、前例を調べる、関係者に話を通す。決まった方針を現場に伝え、現場で起きたことを決めた側に伝える。作る仕事も、繋ぐ仕事も、この層にある。どちらも、決まったことを形にするという意味では同じだからである。組織の実体は、ほとんどこの層でできていた。
これはシステムの現場に限らない。知識を持ち、それを正しく運用し、人と人の間を調整し、平均的な生産を安定して出す。ホワイトカラーと呼ばれてきた仕事の大半が、この層にある。近代社会はこの層を大量に必要とし、そのための教育を整備し、その能力を高く評価してきた。
そして、この層が、いま最も速く置き換わりつつある。
生成AIが得意なのは、まさにこの種の仕事である。知識を引き出し、文書に整え、前例と照合し、齟齬を見つけ、翻訳し、要約する。人が長い年月をかけて身につけてきたこの能力は、機械にとっては安価な処理になった。ここで起きているのは効率化ではない。層そのものの消失である。
使う人と決める人のあいだにあった厚みが、消える。残るのは、何を作るかを決める側と、作られたものが届く先だけになる。
この形が、筆者にはドーナッツに見える。
まず、単純にして考えたい。紙に描いてみる。円をひとつ描き、その中にもう少し小さな円を描く。二つの円のあいだが生地であり、内側の円が穴である。生地が消えれば、外側の縁と穴の縁だけが残る。
以下では、この消えていく層を、ドーナッツの生地にちなんで生地の部分と呼ぶ。
生地の部分とは手段のことである
ドーナッツの生地、つまり穴のまわりを埋めているこの層を、もう少し正確に捉えておきたい。
生地の部分にあったのは、媒介である。内と外のあいだを繋ぐ仕事だった。だが、媒介は情報だけではない。ものを運ぶこと、機械を操作すること、決められた手順で身体を動かすこと。これもまた媒介である。情報の媒介をホワイトカラーが担い、物理の媒介をブルーカラーが担ってきた。
そして、後者もまた機械に移る。物理の媒介を引き受けるのは、AIを載せたロボットである。ロボットは身体を持つが、何をどう動かすかを決めているのはAIのほうである。これまでの産業用の機械は、決められた動作を繰り返すだけであった。実世界の変化に応じて判断できるようになったことで、物理の媒介そのものが移りはじめている。
ロボットは実世界に触れるが、それは生地の部分の仕事を実世界の側で引き受けるということであって、外縁に立つということではない。ロボットは、外側ではなく生地の部分に入る。
こう捉え直すと、生地の部分の正体は単純である。手段の層である。
手段はすべて機械に移る。情報の媒介はAIが引き受け、物理の媒介はAIとロボットが引き受ける。どちらにもAIがいる。人に残るのは、手段ではないものだけである。
残る二つの場所
手段でないものは、二つある。目的を立てることと、目的が向かう先であることだ。
内側とは、まだないものを扱う場所である。何のために何を作るのかを決めること、構造を設計すること、想像すること、これは問題だと言うこと、分かれ道でどちらかを選ぶこと。いずれも、まだ存在していないものを相手にしている。ここが概念の世界だというのは、そういう意味である。
AIも、まだないものを扱うことはできる。案を出し、想像し、選択肢を並べる。できないのは、それを引き受けることだけである。引き受けるとは、決めたことの帰結が自分に返ってくることであり、AIは実世界にいないので、何も返ってこない。扱うことはAIにでき、引き受けることはできない。
外側とは、目的が向かう先である。ここは実世界であり、すでにあるものしかない。
実世界に触れることが、外側に人がいる理由なのではない。物理の媒介が機械に移るのであれば、触れるという機能そのものは機械にもできる。
外側に人がいる理由は、社会が最終的に人に届くために動いているからである。
届くとは、物が渡ることではない。内側で立てられた目的は、実世界で何らかの形を取る。製品であれ、制度であれ、仕組みであれ、それは目的そのものではなく、目的が現実世界で取った姿である。受け手はその姿を通じて、何かを認識する。届くとは、そこで認識に何かが起きることをいう。
だから、同じものが誰にでも同じように届くわけではない。ある人には便利な道具として現れるものが、別の人には監視として現れる。設計する側は自分の認識で設計するが、それは自分の認識の中でのことである。
ロボットは形を受け取るが、認識しない。ロボットが介護をしても、介護されるのは人である。認識する主体が人だけである以上、実行は機械に移りうるが、宛先は移らない。だから外側は消えない。
穴を認識する
内側と外側は、上下ではない。ここで、先ほど単純にした図を戻しておきたい。
紙に描けば、内側の縁と外側の縁は別々のものに見える。だが実際のドーナッツは立体であり、その表面をたどれば、外側の縁から穴の縁まで切れ目なく続いている。同じ一つの面である。内と外という区別は、平面に写したときに現れるものであって、面そのものには境目がない。
生地の部分とは、この立体の中身にあたる。中身が消えれば、残るのは表面だけになる。
ここから一つ出てくることがある。表面の上にいる者には、内も外も現れない。歩いていけば、いつのまにか反対側に出ている。区別が現れるのは、その形を外から見たときだけである。
だが、より根のところにあるのは、内と外の区別ではない。穴があることを認識できるかどうかである。
穴には何もない。それでも、穴があることによって、この形はこの形になっている。穴がなければ、ただの円盤である。穴を認識してはじめて、これがドーナッツだと分かる。
自分がどこにいるかという問いは、そのあとに来る。穴が見えていなければ、内も外もなく、自分の位置を問うこともできない。
本稿がしているのは、この穴を指すことである。ドーナッツという見方を示すとは、そういうことにほかならない。
ただし、指されたものが見えるかどうかは、それ自体が認識の問題である。説明して分かるものではない。穴が見えない人に、穴があると言葉で伝えても、そこには何もないのだから、伝えようがない。
ドーナッツは一つではない
ここまで、ドーナッツが一つであるかのように書いてきた。だが、そうではない。
ドーナッツは領域ごとにある。医療にも、製造にも、教育にも、行政にも、それぞれのドーナッツがあり、それぞれに目的を立てる場所と、目的が向かう先がある。社会全体に穴が一つ空いているのではない。無数の穴が、並んで空いている。
このことは、二つの意味を持つ。
一つは、内側が無数にあるということである。社会を設計する場所が一箇所にあり、そこに少数の人が座っている、という図にはならない。誰もが、どこかのドーナッツの内側でありうる。
もう一つのほうが重要である。内側と外側は、人の属性ではない。その人と、その領域との関係である。
自分の専門領域では構造を見て設計しているのに、組織や制度の話になった途端、制度の内側の人になる。これは誰にでもある。別のドーナッツでは生地の部分にいる、ということである。だから、あの人は外側の人だ、という言い方は成立しない。どのドーナッツの話をしているのか、と必ず問い返さなければならない。
ただし、複数あることは逃げ道にはならない。どのドーナッツであれ、内側に立つには構造を見る認識が要る。認識は人に属していて、ドーナッツには属していない。複数あることは内側の総数を増やすが、内側に立てる人を増やすわけではない。
AIを使うとはどういうことか
AIは誰にでも使えるようになった、と言われる。操作に技術は要らず、話しかければ答える。
だが、使うとは何かを考えておきたい。
内側から使えば、AIは道具になる。目的があるので、返ってきた提案を評価できる。これは違う、ここは使える、と選べる。決めるのは人であり、AIは手段の位置にいる。
外側から使うと、そうならない。目的を立てていないので、提案を評価する基準がない。すると、AIが出したものに反応するだけになる。いいと思う、違うと思う、もう少しこうしてほしい。反応は返せるが、方向は出せない。
方向を出しているのはAIであり、人はその出力に反応する装置として機能している。位置が入れ替わっている。AIが内側に立ち、人が手段の位置に入っている。しかも本人からは見えない。操作しているのは自分なのだから、使っているつもりでいる。
生地の部分から使う場合は、また別のことが起きる。与えられた要件を実現するためにAIを使う。効率は上がる。だが、その仕事自体が消えていく対象なのだから、自分の仕事を機械に渡していることになる。渡しきったとき、渡した人の位置は残らない。
つまり、AIを実際に活用するには、内側に立っている必要がある。目的を立て、それを引き受けている場所からでなければ、AIは道具にならない。
道具が誰にでも開かれていることは、平等ではない。使える形で開かれていても、使える位置にいるかどうかは別だからである。むしろ、内側に立てる人とそうでない人の差は、開かれることによって広がる。
倫理だけが残る
手段の層が消えたあと、何が目的を制約するのか。
これまで、目的を制約していたのは手段のほうだった。無茶な目的が立っても、稟議で止まり、調整で角が取れ、現場で骨抜きになり、実装しているうちに前提が変わった。摩擦が、目的を吟味する時間を生んでいた。目的と実現のあいだにあった距離が、検証の余地だったのである。
AIとロボットが手段を引き受けると、その距離がゼロに近づく。目的が立った瞬間に実装される。目的の質が、そのまま結果の質になる。
制約はもう一つあった。手続きである。近代社会では、目的の妥当性を手続きが代行していた。前例に合っている、規程に沿っている、みんながそうしている。手続き的な正しさが、目的の正しさの代わりをしていた。その層が消えると、目的は裸で問われる。何のためにやるのか、という問いから逃げる場所がなくなる。
残る制約は、倫理だけである。
外側から見ると、これはより重い。外側は目的が向かう先である以上、どんな目的が立てられるかを選べない。しかも内側が見えない。これまで外側にあった抵抗の経路──交渉も、告発も、監査も、報道も──は、すべて媒介の層を通って機能していた。媒介が消えると、経路も消える。外側は内側の倫理に全面的に依存することになる。依存しているという事実さえ、見えないまま。
ドーナッツが複数あることは、ここでは事態を難しくする。領域ごとに倫理が違うからである。医療の倫理、金融の倫理、軍事の倫理。それぞれの内側で立てられる目的は、そのドーナッツの中では正当である。そして、領域と領域のあいだで倫理の衝突を調停していたのも、生地の部分だった。
倫理は、制度では担保できない。制度は生地の部分と一緒に組み替えられるからである。教育でも担保できない。残るのは、内側に立つ人が、実行可能な制約として倫理を構造に組み込むことだけである。それは、アーキテクトが法を作るということにほかならない。
そして、複数の領域の倫理を一人で引き受けることはできない。一人が持てないものを持つ単位として、セルという発想がある。第4号で書いたことが、ここに繋がる。
外側で繋がる
ドーナッツが複数あるなら、ドーナッツ同士はどう繋がるのか。
内側では繋がらない。内側は概念の世界であり、領域ごとに独立している。医療の概念体系と金融の概念体系は、翻訳できるものではなく、そもそも別の世界である。繋げようとすれば、どちらかの概念にもう一方を押し込むことになる。
繋がるのは、外側である。実世界は一つしかない。同じ地面、同じ身体、同じ時間。複数のドーナッツを平面に並べれば、穴はそれぞれ離れたままだが、外縁同士は触れる。
したがって、生地の部分が消えることで領域間の翻訳が失われる、という心配は要らない。翻訳はもともと成立していなかった。生地の部分がやっていたのは翻訳ではなく、調整と辻褄合わせである。接続は、実世界で同じ結果を受け取ることによってしか起きない。統合ではなく、共在である。
ここから、二つのことが出てくる。
第一に、外側に人がいる理由が確定する。AIは概念の世界の存在である。ロボットを介して実世界を動かすことはできるが、実世界にいるわけではない。動かすことと、そこに在ることは別である。そしてロボットのほうは実世界で動くが、手段として動く以上、生地の部分にいる。つまり、ドーナッツ同士が接する場所には、人しかいない。社会を繋いでいるのは、概念でも制度でもAIでもなく、外側における人の共在だけである。宛先が移らないのは、受け取る主体だからというだけではない。そこが、世界の接続点だからである。
そして、そこで接するのは機能ではない。概念の世界では、人は役割や能力として現れる。設計者、担当者、実行者。それらは機能であり、機能同士は並ぶことはできても、出会うことはない。実世界でだけ、人は誰であるかとして現れる。ドーナッツ同士が繋がるのは、そこで人が固有の存在として出会うからである。共在とは、同じ場所にいることではなく、互いが交換不可能な存在として現れることをいう。
第二に、共在は自動的には生じない。実世界に一緒にいることと、共在することは違う。同じ都市に住んでいても交わらない。これまで人を交わらせていたのは、仕事であった。生地の部分は、媒介の層であると同時に、遭遇の装置でもあった。組織に集め、会議に集め、取引先に会わせていた。それが消えれば、遭遇も消える。
したがって、外側の共在は、設計の対象になる。そして設計は内側の仕事である。外側で人が出会う場を作ることが、内側が立てるべき目的の一つになる。
帰結は、外側にしか現れない
内側で立てた目的が何を起こしたかは、外側でしか分からない。
前節で、目的を制約するのは倫理だけになると書いた。だが、何が起きたかを知らずに、何が正しいかを判断することはできない。倫理が働くためには、まず自分の立てた目的が何を起こしたのかが分からなければならない。
それは外側にしか現れない。内側は概念の世界であり、そこでは何も起きない。ある領域の最適化と別の領域の最適化がぶつかるのも、外側である。概念の世界では、内側同士は衝突しない。互いに見えないからである。
しかも、受け手の認識に現れる。何が起きたかは、受け取った人の中で起きていることであり、外から観測できない。数字を集めても、そこに出るのは反応の集計であって、何が現れたかではない。
では、どうすれば分かるのか。自分がその受け手になるほかない。自分が設計したものを、自分で使う。自分が病んだことのある医者、自分が使う道具を作る職人。彼らは、それを知っている。これは位置を移ることではなく、同じ領域について内側にも外側にも立つということである。
ただし、限界がある。人が立てる見方には限りがあり、自分の中に成立していない見方については、そこから何が現れるかを捉えようがない。そして、受け手にならないまま次を設計することは、いくらでもできてしまう。帰結が確かめられる仕組みは、ここまでの話からは出てこない。
押し出されるのは誰か
ここまでは形の話であった。ここからは、この形の中で人がどう動くかを見る。
生地の部分にいた人は、外側に押し出される。動くのは、この人たちだけである。
外側にいる人は、位置が変わらない。目的が向かう先は、これまでもドーナッツの外縁にあった。生地の部分が消えても、外縁は外縁のままである。
内側にいる人も、位置が変わらない。構造を設計する仕事は、これまでも少数であり、これからも少数である。AIによって、その仕事の射程はむしろ広がる。
そして、生地の部分から押し出されたとき、行き先は外側しかない。内側には行けないからである。
押し出された人が内側に移るということは、原理的に起こりにくい。内側に移るためには、構造を見るという認識をすでに持っていなければならない。しかしその認識は、生地の部分の仕事の中では必要とされてこなかった。むしろ、それを持たないほうが、生地の部分では安定して機能した。制度の中で正しく振る舞うことに価値があったのだから、制度そのものを設計の対象として見る必要はなかったのである。
だから、生地の部分が消えたとき、そこにいた人の多くは外側に出ることになる。知識を持ち、それを運用することで自分の位置を保ってきた人が、目的が向かう先の場所に移る。そのとき、これまでの自分を支えてきたものは、もう位置の根拠にならない。
二度目の押し出し
押し出しは、一度では終わらない。
一度目は、AIによる。情報の媒介が消える。事務、調整、報告、管理といった仕事がなくなる。
押し出された人は、多くの場合、手を動かす仕事に移ろうとする。実世界で何かを実行する仕事である。指示を受け、現場に立ち、成果を出す。それはこれまでの働き方の延長であり、自然な反応である。
だが、それもまた媒介である。決められた手順で身体を動かすことは、物理の媒介であり、生地の部分の仕事である。移った先は、外縁ではない。同じ層の中を、横に移っただけである。
二度目は、AIを載せたロボットによる。物理の媒介が消える。実行の仕事がなくなる。
ここで分かることがある。外側は、働き口ではない。
外側とは目的が向かう先であって、職の種類ではない。だから、外側に出るとは、別の仕事に就くことではない。手段であることをやめることである。仕事を変えても、手段として立っている限り、その人はまだ生地の部分にいる。そして生地の部分は、消えていく途中である。
押し出されない場所があるとすれば、それは手段でない場所だけである。
内側にいるつもりで
手段として在るとは、生地の部分にいるということである。生地の部分とは手段の層のことだと書いた以上、この二つは同じことを指す。
だが、自分がどこにいるかは、見ただけでは分からない。
AIを作っている技術者を考える。まだないものを作っているのだから、位置としては内側の仕事に見える。だが、与えられた要件を実現することが仕事になっているのであれば、その人がしているのは、誰かの目的を実装に変換することである。それは媒介であり、生地の部分の仕事である。
職名は設計者でも、実際にしているのは翻訳である。この場合、その人は内側にいない。
そして、この誤認には結果がついてくる。内側にいると思っている人は、押し出されることを予期しない。作る側にいるのだから安全だと考える。だが生地の部分にいるのであれば、押し出される。
自分がどこにいるかは、こう問えば分かる。何を作るかを決めているのは自分か、それとも決まったものを実現しているのか。決めたことの帰結は自分に返ってくるか、それとも別の誰かに返るのか。
手段として在る限り、押し出しは終わらない。役に立つことは機能であり、機能は機械のほうが安く速いからである。
押し出されたことは見えない
第5号で書いたように、この認識構造には、制度の外という足場がない。
だから、生地の部分が消えたことも、自分が押し出されたことも、当人からは構造として見えにくい。見えるのは、仕事が減ったこと、評価が下がったこと、長くやってきたことが差にならなくなったこと、そうした個別の事実である。それらが一つの構造から来ているとは認識されない。
そして、声も上がらない。制度が間違っていると言うためには、制度の外に立たなければならない。制度に支えられてきた人にとって、制度を否定することは自分の足場を否定することになる。だから、現状は受け入れられる。みんなで我慢する。それが、その認識の中で取りうる唯一の正しい対応だからである。
静かに起こる。それが、この移動の特徴である。
新しい仕事は生まれるか
仕事が消えるという話は、これまで何度も言われてきた。そのたびに新しい仕事が生まれてきたではないか、という反論がありうる。
事実である。農業から工業へ、工業からサービス業へ、人は移ってきた。消えた職の数より、生まれた職の数のほうが多かった。
だが、それらはすべて、生地の部分の中での移動であった。何かを作り、運び、繋ぎ、管理する。種類は変わったが、どれも媒介の仕事である。
なぜ、新しい仕事が生まれ続けたのか。機械が増えると、媒介も増えたからである。 新しい機械には、それを作る仕事、動かす仕事、他と繋ぐ仕事、管理する仕事が付いてきた。機械は仕事を奪う一方で、自分の周りに新しい媒介を生んだ。だから総量は減らなかった。
AIとロボットが違うのは、媒介そのものを引き受けることである。機械を動かす仕事も、繋ぐ仕事も、管理する仕事も、機械がする。媒介の増殖が止まる。ここで、これまで働いてきた循環が切れる。
そして、もう一段深いところで起きていることがある。
仕事という語の中身を考えてみたい。対価を得る活動、誰かの必要を満たす活動、時間を提供して役に立つこと。これらはいずれも、手段として機能することの記述である。
仕事とは、生地の部分の活動につけられた名前だった。
そう捉えると、内側も外側も、これまでの意味での仕事ではない。内側は目的を立てて引き受ける場所だが、雇われて目的を立てるというのは矛盾している。雇われた時点で目的は与えられており、それは媒介だからである。外側は目的が向かう先であって、活動の対価を得る場所ではない。
だから、問いはこうなる。新しい仕事が生まれるか、ではない。仕事という概念が残るかである。
賃労働という形式も、職業が人の価値を測る尺度になったことも、近代のものである。仕事の概念は、すでに一度変わっている。次に変わることは、それほど突飛な想定ではない。
これまでどう考えられてきたか
先に断っておく。本節で触れる文献は、筆者が原典にあたったものではない。本稿を書くにあたって生成AIに調べてもらい、書誌と要旨の確認を経たものである。したがってここに書くのは、それぞれの議論の要点として得られたものであり、筆者自身の読解ではない。それでも本節を置くのは、同じ形がすでに観察されてきたのかどうかを、書く前に確かめておく必要があったからである。
この形が現れることは、以前から観察されてきた。
経済学では、定型的で手続き的な中間の職が消え、高賃金職と低賃金職が残るという二極化として実証されている。オーター、レヴィ、マーネインは、計算機が明示的なルールに従って遂行できるタスクにおいて人を代替し、非定型の問題解決や複雑なコミュニケーションでは人を補完すると論じた(2003年)。グースとマニングは、英国で1975年以降に同じ現象が起きていることを確認している(2007年)。中間の空洞化と呼ばれてきた現象である。
ただし、彼らが低賃金側は残ると考えた根拠は、実世界に触れる仕事の自動化が難しいという前提である。モラベックが1988年に指摘したように、知能テストで成人並みの性能を出させるのは比較的容易だが、一歳児の知覚と移動を機械に与えることは困難か不可能である。人の身体は当面安い、という前提である。
本稿はこの前提を外している。AIを載せたロボットが物理の媒介を引き受けるのであれば、二極化論の下半分は、そのままの理由では残らない。低賃金の実行職として外側が残るのではなく、目的が向かう先として外側が残る。残る理由が違えば、そこにいる人の在り方も違う。
手段の層が縮んだ先に何があるかも、繰り返し考えられてきた。マルクスは『資本論』第3巻で、それ自体が目的である人間の力の発展を真の自由の国と呼び、それは必然の国を基礎としてのみ開花しうる、労働日の短縮がその根本条件である、と書いた。ケインズは1930年に技術的失業という語を出し、100年後には週15時間労働になり、人は創造以来はじめて真の、永続的な問題に直面すると書いた。切迫した経済的心配からの自由をどう使うか、という問題である。ただしケインズは、これを一時的な不適応の局面と見ていた。手段の層が消えることを、不可逆な構造変化とは考えていない。
最も近いのはアーレントである。彼女は1958年に、労働なき労働者の社会という見通しを書いた。労働から解放されようとしている社会が、その自由を勝ち取るに値する他の活動を、もはや知らない。これより悪いことはありえない、と。
手段としてしか在れなかった人が、目的として在ることを引き受けられるか。この問いは、すでに立てられている。
本稿が違うのは、その先である。アーレントはそれを、社会が他の活動を知らないという事実として書いた。分配をめぐる議論も同じで、誰が食えるかという条件の問題として扱う。だが、引き受けられるかどうかは、知識の問題でも、意欲の問題でも、制度が保証するかどうかの問題でもない。その人がどの認識の中にいるかによって決まる。制度の外に足場を持たない認識の中では、手段でない場所そのものが見えない。見えないものは、選べない。
これが構造として説明されるとき、話は変わる。教育で解決する、制度で保証する、意識を変える。そうした対策がなぜ効かないのかが分かるからである。
おわりに
ドーナッツという見方は、起きていることを一つの構造として見るためのものである。この見方がなければ、仕事が減った、評価が下がった、長くやってきたことが差にならなくなった、といった個別の出来事としてしか現れない。それぞれ別の問題として扱われ、対策も別々に立てられる。
この見方を採ると、五つのことが問いとして立つ。
押し出された人は、どう在るのか。手段でない場所しか残らないとして、そこに人が立てるのか。立ったとき、何が起きるのか。過去の社会にも働かずに在る人はいたが、それは身分や富に支えられた形であって、いま問題になっている形ではない。そして、内側に入れない人が多くても社会は回る。内側は元から少数でよいからである。だが、手段としてしか在れない人が多いと、社会は回らない。手段の層が消えたあと、その人たちには立つ場所がなくなる。
自分の立てた目的が何を起こしたかを、どうすれば確かめられるのか。それは外側の、しかも受け取った人の認識に現れるので、外から観測できない。自分が受け手になるほかないが、そうしないまま次を設計することは、いくらでもできてしまう。
外側の共在は、どうすれば成り立つのか。これまで人を交わらせていたのは仕事であった。それが消えれば、同じ実世界にいても交わらない。ドーナッツ同士が接する場所は、放っておいて生まれるものではない。
倫理は、どうすれば実行可能な制約になるのか。目的を制約していた摩擦と手続きが消えたあと、残るのは倫理だけになる。だが、そうすべきであると言うだけでは何も動かない。そして領域が違えば倫理も違う。その衝突を調停していた層も、同時に消える。
仕事という概念は、どう置き直されるのか。教育も、雇用も、評価も、年金も、生地の部分が分厚いことを前提に組まれている。前提が変わるとき、制度は自動的には組み替わらない。
どれも、この見方を採ったときに、はじめて問いとして立つ。
参考文献
以下のうち、リフキンを除く各文献は、本稿の執筆にあたって生成AIに調べてもらったものであり、筆者が原典にあたったものではない。
- ハンナ・アーレント『人間の条件』志水速雄訳、ちくま学芸文庫(原著1958年)
- ジェレミー・リフキン『限界費用ゼロ社会──〈モノのインターネット〉と共有型経済の台頭』NHK出版(2015年)
- カール・マルクス『資本論』第3巻 第48章「三位一体的定式」
- ジョン・メイナード・ケインズ「わが孫たちの経済的可能性」(1930年)『説得論集』所収
- David H. Autor, Frank Levy & Richard J. Murnane, "The Skill Content of Recent Technological Change: An Empirical Exploration," Quarterly Journal of Economics 118(4), 1279-1333 (2003)
- Maarten Goos & Alan Manning, "Lousy and Lovely Jobs: The Rising Polarization of Work in Britain," Review of Economics and Statistics 89(1), 118-133 (2007)
- Hans Moravec, Mind Children: The Future of Robot and Human Intelligence, Harvard University Press (1988)