Journal — Vol.7
概念はなぜ効くのか
空と、語れない場所
濵勝巳(HAMA Katsumi) — 2026年7月31日
はじめに
第6号で、社会がドーナッツのような形になっていくと書いた。手段の層が機械に移り、人に残るのは目的を立てる場所と、目的が向かう先だけになる。内側は概念の世界であり、外側は実世界である。そして、複数のドーナッツは外側で接する、と。
本稿は、そこで立てた実世界という言葉を検討する。
というのも、筆者はこの20年、実世界を立てずに考えてきたからである。ドーナッツの形を書いたとき、自分の理論の根と衝突するものが出てきた。本稿はその衝突の記録であり、決着の試みである。
ソフトウェアは空である
2006年、筆者は「ソフトウェアとは何か」という問いに一つの答えを得た。ソフトウェアは空(くう)である、というものである。
ソフトウェアには実体がない。ハードウェアのように触れるものではなく、紙に書かれた文字でもない。それは人の知識であり、意識である。眼耳鼻舌身という感覚器官から意識にいたるまで、すべては人の内側にある。個人の心をなくせば、ソフトウェアは何も残らない。
この見方は、仏教の唯識に近い。唯識とは、心の外に対象の実在を認めない立場である。唯識無境という。世界は識によって現れているのであり、識の外に事物はない。
この立場は、ソフトウェアを考えるうえで有効だった。ソフトウェアを物として扱おうとすると、必ずどこかで無理が出る。行数でも、機能でも、ファイルでもない。それを知識として、つまり概念だけでできたものとして扱うことで、扱えるようになった。
そして、この見方は筆者の理論全体の基礎になった。実世界を立てなくても、話が進んだからである。
だが、概念だけでは繋がらない
第6号で、複数のドーナッツは外側で接する、と書いた。
内側では接しない。内側は概念の世界であり、領域ごとに独立している。医療の概念体系と金融の概念体系は、翻訳できるものではなく、そもそも別の世界である。繋がるのは外側だけである。
ここで問題が起きる。
もし、すべてが個人の心の中にあるのなら、外側もまた心の中にあることになる。すると、複数の人が同じ外側で接するということが説明できない。それぞれの心の中に、それぞれの外側があるだけになるからである。
これは唯識の立場が抱える難所でもある。中観の側からは、古くからこの点が突かれてきた。龍樹は一切が空であると説いたが、唯識は、一切が空であると認識するその心だけは存在しなければならない、とする。心を一つ残すのである。
心を残すと、心の外が説明できなくなる。そして、心の外がなければ、心と心のあいだも説明できない。
筆者は20年、概念だけで考えてきた。だが、ドーナッツが複数あり、それらが接する場所があると気づいたとき、概念だけでは足りなくなった。概念だけにしたいのだが、それだけでは語れないものがある。
空とは、無いことではない
ここで、空という語をもう一度確かめておきたい。
空とは、無いということではない。自性を持たないということである。自性とは、それ自体で成り立っている実体のことをいう。空であるとは、それ自体では成り立たず、関係のなかでのみ現れるということである。龍樹はこれを縁起として説いた。
この区別は決定的である。
実世界が無いと言えば、外側は消える。実世界が実体としてあると言えば、それは概念の外に確固たる基盤を置くことになり、認識の話が閉じなくなる。
だが、空であると言うなら、どちらでもない。実体としてはないが、関係としては現れる。
外側とは、そういう場所である。実世界という実体があるのではない。複数のドーナッツが接する関係の場が、外側と呼ばれている。
そして、ここが重要である。空であるからこそ、接続点になれる。
自性を持つものは、他と混じらない。それ自体で成り立っているのだから、他を必要としない。自性を持たないからこそ、そこで複数のものが接することができる。もし外側が実体であれば、それぞれの領域が自分の実世界像を持ち、また別々になってしまう。外側が空であることが、外側が一つであることの条件なのである。
心を残さず、外界も実体としない。どちらも空とする。そうしてはじめて、繋がりが説明できる。
概念は、どうやって届くのか
ここで、本稿の出発点にあった問いに戻ることができる。概念だけでできたものが、なぜ実世界で効くのか。
第6号で、届くとはどういうことかを書いた。内側で立てられた目的は、実世界で何らかの形を取る。製品であれ、制度であれ、仕組みであれ、それは目的そのものではなく、目的が現実世界で取った姿である。受け手はその姿を通じて、何かを認識する。届くとは、そこで認識に何かが起きることをいう。
目的があり、形があり、認識がある。この三つが繋がったとき、届いたことになる。
そして、この連鎖は、どこかに実体があれば止まってしまう。
概念が実体であれば、それは物に変換されなければ実世界に出られない。だが概念は物ではないので、変換のしようがない。実世界が実体であれば、そこに概念が入り込む隙間はない。実体は実体としてそこにあるだけだからである。認識が実体であれば、外から何かが現れることはない。すでに閉じているからである。
三つとも自性を持たないからこそ、繋がる。届くとは、実体が移動することではなく、縁起が成立することである。
ソフトウェアは空である、という答えが有効だったのは、このためだったと思う。ソフトウェアを実体として扱おうとすると、それが実世界で効くことが説明できない。空として扱えば、効くことのほうが自然になる。
語れないことによって、外側である
もう一つ、扱っておかなければならないことがある。
概念だけにしたいという願いは、どこから来るのか。理論は概念でできているから、である。すべてを概念にできれば、理論は閉じる。閉じた理論は美しい。
だが、閉じた理論は外側に届かない。
龍樹は二つの真理を立てた。世俗諦と勝義諦である。世俗諦は言語で表現できる真理であり、勝義諦は言語と概念を超える。そして『中論』は、この区別を理解しないなら仏の教えの深いところは分からない、と述べる。
ここには、ねじれがある。勝義諦は言語を超えるが、言語に依らなければ説明できない。語れないものを、語ることによってしか指せない。『中論』が否定を重ねる形をとるのは、そのためである。
外側も同じである。
内側は概念の世界であり、語る場所である。外側は、語りが届かない場所である。もし外側を概念で完全に規定できたなら、それは内側に取り込まれたということであり、もう外側ではない。
外側は、語れないことによって外側である。
これは理論の不足ではない。定義である。語れないものが残ることは、失敗ではなく、外側がまだそこにあるという印である。
理論もまた、内側にある
そして、この話は理論そのものに返ってくる。
第6号にこう書いた。内側で立てた目的の帰結は、内側では確認できない。外側にしか現れないのに、内側と外側を繋いでいた手段の層はもうない。だから、内側にいる人が自分の立てた目的の帰結を知る方法は、自分がその受け手になることしかない、と。
理論も同じである。理論は概念でできている以上、内側にある。
概念だけで閉じた理論は、帰結を知らないまま最適化を続ける内側そのものになる。整合していて、美しく、そして実世界で何が起きているかを知らない。これは、第6号で批判した構造と同じものである。
だから、理論は語れないものを残さなければならない。それは怠慢ではなく、外側への通路である。
メタウェアが統合ではなく誤認の防止であるというのも、ここに繋がる。すべてを概念にすることが統合であり、語れないものを語れないまま残すことが、誤認の防止になる。理論が全部を語り尽くしたと思ったとき、その理論は自分が内側にいることを忘れている。
おわりに
2006年に得た「ソフトウェアは空である」という答えは、ソフトウェアが概念だけでできていることの発見だった。本稿が問うたのは、その先である。
概念だけでできたものが、なぜ実世界で効くのか。
第6号の形で言えば、内側で作られたものが、なぜ外側に届くのか。この問いは、実世界を実体として立てても、心の中だけに閉じても、答えられない。どちらも空であるとしたときにだけ、届くということが成り立つ。
外側とは、概念が効いてしまう場所である。そして、そこで何が起きているかは、概念からは語れない。
筆者は20年、概念の側から考えてきた。それは間違いではなかったと思う。だが、概念だけで閉じようとしていたことには、無理があった。閉じないことが、この理論の条件である。
参考文献
唯識については、以下の2冊を長く手元に置いてきた。龍樹の二諦説については、本稿の執筆にあたって生成AIに調べてもらったものであり、筆者が原典にあたったものではない。
- 龍樹『中論』(鳩摩羅什訳、4巻。二諦説は第24章)。龍樹は150年頃から250年頃の人とされる
- 太田久紀『唯識の読み方──凡夫が凡夫に呼びかける唯識』大法輪閣(2000年)
- 松久保秀胤『唯識初歩──心を見つめる仏教の智恵』鈴木出版(2001年)
- 『般若波羅蜜多心経』