Journal — Vol.8
ドーナッツ社会を実行可能にするもの
濵勝巳(HAMA Katsumi) — 2026年7月31日
はじめに
第6号で、社会がドーナッツのような形になっていくと書いた。本稿はその続きである。まず、前提となる形を確認しておきたい。
これまでの社会で最も分厚かったのは、何を作るかを決める人と、それを使う人とのあいだにある層である。要望を聞き取る、仕様を整理する、設計書を書く、実装する、稟議を回す、報告をまとめる、進捗を管理する、関係者に話を通す。あるいは、ものを運ぶ、機械を操作する、決められた手順で身体を動かす。情報を媒介する仕事と、物理を媒介する仕事。ホワイトカラーやブルーカラーと呼ばれてきた仕事の大半が、この層にあった。
つまりこれは、手段の層である。そして手段は、機械に移る。情報の媒介はAIが引き受け、物理の媒介はAIを載せたロボットが引き受ける。
手段が消えたあと、人に残るのは二つだけになる。目的を立てることと、目的が向かう先であることである。前者を内側、後者を外側と呼んだ。ドーナッツにたとえたのは、生地の部分が消えて、穴の縁と外の縁だけが残るからである。消えていく層を、ドーナッツの生地にちなんで生地の部分と呼んだ。
内側は概念の世界であり、領域ごとに分かれている。外側は実世界であり、一つしかない。上下の関係ではなく、同じ輪のどちら側か、という違いである。
以上が第6号で示した形である。だが、見方を示しただけでは、まだ足りない。その形の中で、仕事はどう成り立つのか。本稿はそれを書く。
役割では組めなくなる
まず、成り立たなくなるもののほうから見たい。
いまの形で言えば、組織の大半は生地の部分にある。何を作るかを決める人と、それを使う人のあいだ。そこに人が配置され、仕事が割り振られ、組織図が書かれてきた。
そして、その層の中をさらに分けているのが役割である。誰が何を担当し、誰から受け取り、誰に渡すか。役割を決めるとは、生地の部分の中で仕事を分けることである。
分ければ、分けたものを繋ぐ必要が生じる。何をいつ渡すか。遅れをどう調整するか。齟齬をどう埋めるか。誰の承認を得るか。この繋ぐ仕事もまた、生地の部分の中にある。
役割を細かく分けるほど、繋ぐ仕事は増える。ソフトウェアの現場で起きたことも同じであった。仕様を書く人と作る人を分け、あいだに管理を置き、そのたびに繋ぐ仕事が増えていった。分業を進めた結果、分業を繋ぐための仕事が増えていった。
つまり、役割で組むという方法そのものが、生地の部分が分厚いことを前提にしている。分けるべき層があり、繋ぐべき距離があるから、役割という区分が意味を持つ。
そして、その層が機械に移る。
このとき何が起きるか。組織図を書き換えることになる。この役割はもう要らない、この人は何をするのか、誰が何を引き継ぐのか。いま多くの組織で起きているのは、この作業である。
だが、書き換えても同じことが起きる。組織図に書かれるのは人の名前であり、役割で組む限り、担い手が変わるたびに組み直しになる。そして担い手は、これから何度も変わる。
残るのは、目的と能力だけである
では、何が残るのか。
第6号でしたのは、場所の話である。手段の層が消えたあと、人が立つ場所として残るのは、内側と外側だけになる、と。ここでは仕事の側から見たい。
仕事を要素に分けてみる。何のためにやるのかということ。それに対して何が働いているかということ。そして、誰が担当で、どこに所属していて、どの役割か。
このうち後半の三つは、いずれも媒介を前提にした区分である。担当を決めるのは、渡す相手を決めるためである。所属を決めるのは、指示の経路を決めるためである。役割を決めるのは、分けた仕事を割り当てるためである。どれも、繋ぐべき距離があることを前提にしている。
その距離が消えれば、これらの区分は意味を失う。渡す相手がいなければ担当は決められないし、指示の経路がなければ所属も決まらない。
残るのは前半の二つ、目的と能力だけになる。目的が立てられていることと、その目的に対して能力が働いていること。それだけである。
これは、組織が消えるという話ではない。組織を組む前提が変わる、という話である。役割で組めないなら、目的で組むことになる。
この形を、セルと呼んできた
目的が立てられ、それに対して能力が働き、あとから振り返って、これは一つの活動だったと認識される。この形を、筆者はセルと呼んできた。
先に断っておく。これは筆者が提唱している概念であり、一般に使われるセルとは別のものである。製造業のセル生産方式でいうセルは、人と設備と工程を内包する恒常的な生産単位であり、内部の効率が関心の中心にある。生物学的な細胞とも関係がない。以下でセルと書くのは、すべて本稿で定めた意味においてである。
第4号で書いたことだが、前提として確認しておきたい。
セルは、人の集合ではない。誰が入っていて誰が入っていないか、という話ではない。役割の配置でもない。所属でもない。あるのは目的だけである。
だから、目的が違えば別のセルである。同じ人が関わっていても、目的が違えば別のセルになる。逆に、関わる人が入れ替わっても、目的が同じなら同じセルである。決めているのは人ではなく目的である。
そして、あらかじめ設計して置くものではない。いまから作る、という言い方ができない。目的が立ち、能力が働いた結果として、振り返ればそこに区切りがあった、という形でしか認識されない。
もう一つ、今ある能力だけで目的に向かう。足りない能力を前提にしない。あの能力があれば、こういう人がいれば、という組み立て方をした時点で、それは現在から離れている。
以上が、本稿で用いるセルである。
組織図に相当するものがない
セルには、内部がない。
内部がない、という言い方は分かりにくいかもしれない。役割を前提とする構造と比べると、はっきりする。
役割を前提とする構造には、組織図がある。誰がどこにいて、誰が何を担当し、誰の下にいるか。それが書ける。書けるということは、中身があるということである。人がいて、役割があり、権限があり、指揮の線がある。
セルには、それに相当するものがない。書けるのは目的だけである。誰が入っているかは決まっていないし、決める必要もない。あとから振り返れば、どの能力が働いていたかは分かる。だが、それは働いた痕跡であって、あらかじめそこに置かれていたものではない。
内部がないということは、内部を繋ぐ必要がないということである。役割を前提とする構造では、内部にあるものを繋ぐために生地の部分が要った。役割と役割のあいだ、工程と工程のあいだ、部署と部署のあいだ。繋ぐべきものが内部にあるから、繋ぐ仕事が生じる。
セルには、繋ぐべき対象がそもそもない。
これは、繋ぐ仕事を減らす工夫ではない。工程を短くしたのでも、人数を絞ったのでもない。内部というものを持たない、というだけである。
だから、生地の部分が消えても影響を受けない。もともと依存していない。
担い手を問わない
もう一つ、ドーナッツ社会に直接効くことがある。
セルを構成するのは能力である。ただし、能力がセルの中にあるのではない。能力は外側から提供され、目的に対して働くことによってセルを構成する。
ある目的に向かうとき、そこにはいくつもの能力が働いている。状況を調べる能力、構造を見る能力、形にする能力、判断する能力。役割を前提とする構造では、これを人に貼り付ける。調査担当、設計担当、実装担当。人と能力を一対一で対応させ、その人がその能力の持ち主だということにする。
セルでは、そうしない。見ているのは、能力が目的に対して働いているかどうかだけである。同じ人が複数の能力を提供してもよいし、一つの能力を複数の人が提供してもよい。能力は人に属したまま、活動に貸し出される。
そして、提供する主体は人に限らない。人、サービス、システム、エージェント。能力が目的に対して働くのであれば、それを提供するのが人であるか機械であるかは、成立条件に入らない。
ここが決定的である。
役割を前提とする構造は、その役割を人が担うことを前提にしている。だから、担い手が機械に移るたびに、組み直しが必要になる。目的で組む場合、その問いが立たない。手段が機械に移っても、目的に対して能力が働いているという条件は、そのままである。
備えていたわけではない。担い手を問わない形をしていた、というだけである。
帰結は、外側で確かめる
ドーナッツ社会では、目的の帰結は外側にしか現れない。内側は概念の世界であり、そこで立てた目的が実際に何を起こしたかは、実世界においてしか確かめられないからである。しかもそれは、外側にいる人の認識に現れる。何がどう届いたかは、受け取る側の中で起きていることである。
目的で組むとき、この条件が最初から入っている。
目的は、活動それ自体に向けられない。この活動をうまく回すこと、この体制を定着させること、この取り組みを続けること。これらは目的として置くことができない。いずれも自分に向いているからである。
置けるのは、外側に向いた目的だけである。その地域の人が必要な薬を受け取れるようにすること。手続きに追われている人が、本来の仕事に時間を使えるようにすること。
この違いは、実際には見分けにくい。組織を改善するという言い方は、外側に向いているように聞こえるが、向いている先は自分である。うまく回っているかどうかを気にしはじめた時点で、目的は内側に折り返している。
そして、目的が外側に向いている以上、確かめる先も外側にある。
役割を前提とする構造では、結果は担当分の完了で測られる。自分の工程を終えたか、渡すべきものを期日までに渡したか。その先で何が起きたかは、次の工程の問題になる。こうして、帰結は誰の手元にも残らない。全員が自分の担当を終えているのに、何が起きたかを誰も知らない、という状態が生じる。
目的で組む場合、作業が終わったことは、確かめたことにならない。見るのは、外側の状況がどう変わったかである。
ただし、これで帰結が分かるわけではない。状況が変わったことは外から見えるが、その変化が受け手にとって何であったかは、そこからは見えない。作業時間が減ったことは測れる。それが楽になったことなのか、監視が強まったことなのかは、測れない。帰結は受け手の認識に現れるからである。
だから、目的で組むことによって得られるのは、確かめる先が外側に固定されることまでである。作業の完了で測るのをやめる、というところまでは言える。その先は、依然として開いている。
決定が、追認になるとき
ドーナッツ社会で起きることを、もう一つ書いておきたい。
内側とは、まだないものを扱う場所である。何を作るかを決めること、構造を設計すること、想像すること、これは問題だと言うこと、分かれ道でどちらかを選ぶこと。いずれも、まだ存在していないものを相手にしている。
そして、まだないものを扱うことは、AIにもできる。案を出し、想像し、選択肢を並べ、これは問題だと指摘する。できないのは引き受けることだけである。AIは実世界にいないので、決めたことの帰結が返ってこない。だから、AIが出せるのは提案までである。第6号でそう書いた。
だが、同じことが人についても言える。
帰結が返ってこない位置にいる人の決定も、決定ではない。追認である。
AIが選択肢を出し、根拠を添え、推奨を示す。人はそれを承認する。形式としては人が決めている。だが、判断の材料をすべてAIが出しているのであれば、人はその材料を検証できない。検証できないものに対して、承認以外に何ができるだろうか。
最終決定は人が行う、という建前だけが残り、実質は承認の作業になる。しかも本人には、自分が決めているように見えている。
決定が提案と区別されるのは、決めたことの帰結を確かめられる場合だけである。そして帰結は外側に現れる。目的が外側に向いていなければならないという条件は、ここでも効いている。
実行可能にするということ
筆者は以前から、アーキテクトとは法を作る人である、と書いてきた。ここでいう法とは、規則のことではない。実行可能な制約のことである。
理念は実行されない。すべきである、と言うことは、何も動かさない。動かすのは、そうならざるを得ない形である。
帰結を確かめるべきだ、と言うのは理念である。目的が外側に向いていなければ成立しない、という条件を先に置けば、確かめる先は外側にしかなくなる。それが実行可能な制約である。
ドーナッツ社会を実行可能にするものがあるとすれば、この種の制約だと思う。
解けないこと
ただし、断っておかなければならないことがある。
本稿が書いたのは、仕事の成り立ち方である。第6号で残した問い──押し出された人はどうなるのか──を、これは解かない。
目的が立ち、そこに能力が働くとき、活動が成立する。能力が働いていない人については、何も言わない。手段の層が消えたあと人がどう在るのかという問いは、依然として答えられていない。
そこは分けておきたい。仕事の成り立ち方が説明できたからといって、人の在り方が説明できたわけではない。
おわりに
この考え方の出発点は、2004年に松本吉弘氏から教わったソフトウェア・セル生産である。名前もそこから来ている。だが、先に断ったとおり、学んだものと本稿で書いたものは別のものになった。きっかけであって、同じではない。
その後の20年で、この概念は内部を失っていった。内部を持たないという性質は、当時から意図していたものではない。運用の要請を定義から外していった結果として、そうなった。
いま振り返ると、その形が、手段の層が消える社会にそのまま当てはまる。内部を持たない形は、内部が機械に置き換わっても揺らがない。担い手を限定しない形は、担い手が人でなくなっても成立する。
備えていたわけではない。ただ、形が先にあった。
参考文献
- メタウェア研究所ジャーナル 第4号「セルという入口──役割前提の組織が排除するもの」(2026年4月)
- メタウェア研究所ジャーナル 第6号「ドーナッツ社会──生地の部分が消えるとき」(2026年7月)
- 松本吉弘によるソフトウェア・セル生産に関する一連の論考(2004年に教示を受けた。本稿のセル概念の起点であり、内容としては別のものである)