Journal — Vol.9

客観と客観性

なぜ人は自分の見方を客観と呼ぶのか

濵勝巳(HAMA Katsumi) — 2026年8月6日

はじめに

第3号と第5号では、認識の前提が異なる認識構造について記述した。反応だけで動く認識構造。制度の側に判断の基準を置く認識構造。同じものを見ていても、何が問題として現れるかが根本から異なる。

本稿では、そこから一つの語を取り上げる。客観である。

客観という語は、日常の中で当然のように使われている。客観的に考える。客観的な事実。客観的な判断。科学は客観的であり、法律は客観的であり、データは客観的であるとされている。

だが、認識の前提が構造として異なるのだとすれば、その客観とは何を指しているのか。本稿はそれを書く。

客観は存在しない

客観とは、認識する主体の立場や感情、知識、経験に左右されず、誰に対しても同一に成立する認識のことだと理解されている。

そのような客観は存在しない。

これは、人間の認識能力が不完全だという話ではない。すべては主観にすぎないという相対主義でもない。

客観が存在しない理由は、人の認識には必ず認識構造があるからである。

ここでいう認識構造とは、対象を認識したあとに付け加わる視点や立場のことではない。何が認識として成立し、何が意味を持ち、何が問題として現れるか。それをあらかじめ規定しているもののことである。

人はこの認識構造を離れて対象を認識することができない。認識構造を持たない認識、すなわち客観は、成立しようがない。

認識構造の非対称性

客観が存在しないのは、認識には必ず認識構造があるからである。しかし、人が自らの認識を客観として扱う理由を理解するには、認識構造の存在だけでなく、その非対称性を考える必要がある。

ある認識構造で成立する認識が、別の認識構造では成立しないことがある。だが、非対称性はそれだけではない。

ある認識構造では、異なる認識構造が存在すること自体が認識できない。

その結果、異なる認識構造から成立した認識は、それを生じさせた別の認識構造としては把握されない。自らの認識構造において認識可能な形に変換される。制度の側に基準を置く認識構造においては、それが既存の判断パターン、誤り、逸脱、例外、あるいは異物として処理される。

他の認識構造を否定しているのではない。他の認識構造が存在するということ自体が、認識として成立しないのである。

この非対称性によって、人は自らの認識構造を唯一の認識として扱う。

客観とは、この唯一性が認識された状態ではない。

唯一性が認識されていない状態である。

客観とは何か

客観とは、主体から独立した認識ではない。認識構造の存在が認識されないことによって、自らの認識構造だけが世界であると理解された状態である。

したがって、人は客観を認識しているのではない。自らの認識構造によって成立した認識を、客観として扱っている。

客観とは、認識構造の非対称性から生じる認識上の錯覚である。

客観性とは何か

客観が存在しないとしても、人には客観性の差が存在する。

しかし、客観性を、存在しない客観へ近づく度合いとして理解することはできない。存在しないものへ近づくことはできない。

客観性とは、認識を豊かにする能力である。ただし、その成立様式は認識構造によって異なる。

知識は、認識に利用できる概念を増やす。経験は、認識の精度を高める。そして認識構造は、何が認識として成立するかそのものを規定する。

この三つによって、人が扱うことのできる認識の範囲が決まる。

知識と経験による客観性

知識は対象を分類する概念を増やす。経験は、その概念を状況に応じて使い分ける能力を育てる。

同じ認識構造にあっても、知識と経験が異なれば、成立する認識は異なる。

数学はその代表例である。虚数や群論、圏論は、一定の知識と経験を持つ者には認識として成立する。しかし、それらを持たない者には成立しない。

ここで生じている差は、認識構造の差ではない。知識と経験による差である。

知識と経験は、認識のバリエーションを増やす。しかしそれは、ある認識構造の内部においてである。さらに、認識構造が変われば、同じ知識と経験であっても、認識の成立様式が変わる。ある認識構造では判断パターンとして蓄積される知識が、別の認識構造では構造として対象化される。

知識と経験は、認識構造から独立していない。

ただし、知識と経験は、誰もが広げるわけではない。既存の判断パターンで対応できる限り、広げる必要は生じない。実際には、広げないことのほうが多い。

認識構造を対象化できる者が知識と経験を広げる理由の一つは、制度の側に基準を置く認識構造を理解し、必要に応じて再現できるようになるためである。その認識構造の思考は、学習によって理解することができる。そして社会の多数がそこにある以上、その中で機能するには、その認識を再現できなければならない。

客観性の成立様式は認識構造によって異なる

客観性は、すべての認識構造で同じように成立するわけではない。

反応だけで動く認識構造では、状況と結果への直接反応が中心となるため、認識に幅は要らない。

制度の側に基準を置く認識構造では、知識と経験によって判断パターンが形成される。このパターンが広く、深く、精密になるほど、対応できる状況が増える。しかし、それは複数の主観を持つということではない。社会の中で形成された判断パターンの多様性である。

一方、認識構造そのものを対象化できる場合には、異なる主観を保持することが可能となる。同じ対象について、複数の認識が同時に成立する。

したがって、客観性は一つの能力ではない。認識構造によって、その成立様式が異なる。

社会はなぜ客観を求めるのか

社会では、客観的に考えることが求められる。

なぜ、客観という概念が必要とされるのか。

社会が成立するためには、判断が一致しなければならない場面がある。誰が担当しても同じ結論になること。前例に従えば同じ扱いになること。この一致がなければ、制度も組織も運用できない。

制度の側に基準を置く認識構造は、知識と経験を判断パターンとして蓄積する。そのパターンが社会の中で共有されるとき、その一致が客観と呼ばれる。

反応だけで動く認識構造には、客観は必要ない。状況への反応に、正しさの基準は要らない。認識構造そのものを対象化できる場合にも必要ない。複数の主観を保持できる以上、唯一の正しい認識という概念が働く場がないからである。

客観という概念は、制度の側に基準を置く認識構造において、社会的な必要性から強く要請される。

しかし、多くの場合、社会で求められているのは客観性ではない。判断を固定し、これ以上考えなくてもよい状態を求めているのである。

客観的に正しい。データが示している。専門家がそう言っている。

これらは、本来は一つの認識にすぎない。しかし、客観という言葉によって、他の認識構造の可能性を閉じる働きを持つ。

客観が存在するから判断が固定されるのではない。認識構造の非対称性によって、自らの認識だけが世界であると感じられるために固定されるのである。

客観性はどのように形成されるか

制度の側に基準を置く認識構造の判断パターンは、若い頃から認識や行動を矯正され、その過程で知識と経験を蓄積することによって形成される。自ら選んで身につけたものではない。教育、しつけ、職場での訓練。それらによって、何を正しいとし、何を問題とするかのパターンが作られる。

第5号で書いたとおり、この認識構造は近代社会が必要とし、教育を通じて作り続けてきたものである。

したがって、この認識構造における客観性は、若い頃にどのような矯正を受けたかによって、その範囲が決まる。

この認識構造にある人が、自らの客観性を高めたいと考えることがある。しかし、その時点では、既に判断パターンが形成されている。社会は、成人に対して、形成期と同じような継続的な矯正を行わない。

さらに、どこから手をつけてよいかが分からない。この認識構造は判断パターンによって対応する。しかし、客観性を得るためのパターンを持っていない。パターンがないことについては、パターンで対応できない。

そして、その方法を示すものは、この認識構造の内部にはない。異なる認識構造から書かれた記述は、そこでは認識として成立しないからである。

ただし、不可能ではない。困難であるだけである。しかし、そのような変化は極めて稀である。

多くの場合、人は自らの現状の客観に思考停止し、そこに甘んじる。自分の認識が客観であると思っている以上、それ以上を求める理由がないからである。

おわりに

客観は存在しない。人の認識には必ず認識構造があり、その認識構造は非対称だからである。

非対称性によって、人は自らとは異なる認識構造の存在を認識できない。その結果、自らの認識構造によって成立した認識を、客観として扱う。

客観は存在しない。しかし、客観性は存在する。

客観性とは、認識を豊かにする能力である。知識と経験がそれを広げるが、どのように広がるかは認識構造が決める。同じ知識と経験であっても、認識構造が変われば認識の成立様式が変わる。

したがって、客観性は一つの能力ではない。認識構造によって、その成立様式が異なる。

客観とは、認識構造の非対称性によって生じる認識上の錯覚である。しかし、その錯覚もすべての認識構造で同じように現れるわけではない。ある認識構造では客観を必要とせず、ある認識構造では客観が社会の前提となり、ある認識構造では客観そのものが認識対象となる。

客観は普遍的な概念ではない。認識構造によって、その必要性も意味も異なる。

参考文献

  1. メタウェア研究所ジャーナル 第3号「振る舞いと認識構造──行動を決定するもの」(2026年4月)
  2. メタウェア研究所ジャーナル 第5号「正しさの中にいる人々──近代社会が必要とした認識構造」(2026年4月)